『新編埼玉県史 通史編1』の稲荷山古墳の鉄剣の年代推定の部分は、実にわかりにくいものだった。
鉄剣に刻まれた「辛亥の年」が、いつを意味するかについてである。
同書406ページ(「一 金錯銘鉄剣の語るもの」)を見てみよう。

「この辛亥の年が何年にあたるかについては諸説があるが、そのなかで西暦四七一年と五三一年という説がもっとも有力なものとしてよい。」(同書、以下同じ)
 有力な説は2つである。

「それでは、両説のうち、どちらの説がより事実に即しているのだろうか」
「埼玉県の考古学者たちは、この古墳から出土した諸遺物、とくに須恵器の実年代を重視して、その築造年代を西暦五〇〇年前後とする見方をとっている。この立場を尊重すれば、築造後まもなく作られた礫槨もまた、五〇〇年前後のものと考えざるをえない。」
 ここまでは、問題はないと思ふ。

「したがって、銘文にいう辛亥年が西暦四七一年をさす可能性はきわめてつよく、現状では五三一年説はやや不利とみることができよう。」

 これで結論なのだが、このあとの文は四七一年説を前提に全てが書かれるので、ここで断定に近いことになったようだが、わかりにくい。

 考古学者は「西暦500年前後」だとする。471年と531年では、どちらが「500年」に近いか。
西暦500年との差は、471年なら29年差、531年なら31年差。その差は 2年でしかない。
29年と31年では、どちらとも決め兼ねるのではないだらうか。
「推定500年」の誤差が 2年以上、すなはち 0.4%以上はあるとするなら、2年差はないに等しい。

文章にも妙なところがあり、「471年をさす可能性はきわめてつよく」と書くなら、「531年説はやや不利」ではなく「きわめて不利」と書かねばならないと思ふ。

少なくとも、同書では「471年をさす可能性はきわめてつよく」とする根拠は、全く成り立たないので、全く別の事情がからんでしまった問題なのかもしれない。
ちなみに時の天皇は、471年なら雄略天皇、531年なら欽明天皇。

昨年の9月に出かけた信州方面への団体旅行、宿泊先のホテルの壁面に掲げられた大きな版画絵を見た。
大浴場の少し先の通路の壁面のその版画絵は、縦横1メートル以上の大きさ。
祭礼で踊る人が描かれ、和歌が書き添へてあった。その歌は、有名な歌で、

 遠き世ゆ、山に伝へし、神怒り。この声を われ聞くことなかりき

伊那地方の新野の祭りを詠んだ、釈迢空の歌だった。
写真に撮らせてもらっても良かったが、あいにくカメラを持たず、出発の際に別のことに謀殺され、同行者に撮ってもらうこともしなかった。

その後、風邪をこじらしたり多忙な時期があり、落ち着いてからネットで調べて見たのである。
長野県出身の版画を調べると、森獏郎といふ人があり、小林一茶の句をまじえた版画などもあり、絵柄もこの人で間違ひない。
『森獏郎板画集』(郷土出版社)も取り寄せてみた。
森獏郎
画集の中の1つを紹介すると、この1枚は「杏の里のわらべうた」とあり、民俗行事の「成木責め」の文句を取り入れた、わらべうたを題材にした作品なのだらう。
釈迢空の歌の絵は、収録されてゐなかった。
もう1度そのホテルを訪ねるしか方法はないのかもしれない。
場所は、おそらく昼神温泉「ホテル吉弥」ではないかと思ふ。

海幸彦山幸彦の物語

2017.08.10 Thursday ◇ 神々Edit
農村向けの雑誌『家の光』の付録に『こども家の光』という小さい冊子が毎月付いていたころがあり、昭和31年6月号に、古事記の神話物語「海幸彦山幸彦の物語」が載ってゐた。浜田広介の執筆。画像は4ページのうちの2ページ。
海幸彦山幸彦
古事記の物語と大きく異なる部分がある。
つづきはこちらhttp://nire.main.jp/sb/log/eid233.html

邪馬台国

2017.07.30 Sunday ◇ 歴史Edit
今日の邪馬台国のブームのきっかけとなったのは、長崎県島原市の盲目の作家・宮崎康平の著作『まぼろしの邪馬台国』(講談社 1967年1月)であるといふ。
筆者は、学習研究社の雑誌『中学一年コース』か『二年コース』で、同書の紹介記事を読んだ記憶があるので、1967年の早い時期といふことになる。
1967年は、手塚治虫の「火の鳥・黎明編」が雑誌『COM』に連載された年であり、「火の鳥」には邪馬台国や卑弥呼が登場する。最初に読んだのは6月号だった。作品に登場する騎馬姿の征服者は、無気味で奇妙に思えた。
『まぼろしの邪馬台国』は1965年から雑誌に連載されたものを単行本化したとのこと。「火の鳥・黎明編」の最初の単行本は1968年。

こうしてみると、邪馬台国ブームの初期のころから、関心をもってゐたことになる。

ブームを作ったもう1冊は、井上光貞『日本の歴史 第1巻 神話から歴史へ』 中央公論社 1964年初版だそうで、これを読んだのは、数年後、1969年ごろだった。
そのほか、松本清張の『古代史疑』(1968)なども有名だったらしい。『清張通史』は東京新聞連載時に読んだ記憶があるが、1976年。有明海が博多湾までつながってゐたような想定があったような気がする。

井上、宮崎、手塚、松本、4人とも邪馬台国九州説である。
邪馬台国畿内説には、ベストセラーといふものがあったかどうか記憶にないが、横綱が東西に2人あるような配置が日本人に好まれるためだらうか。

このごろは、論証もなく「近年は畿内説が有力云々」と書き始める人が目立つが、いつからそんなふうになったのだらうか。それについては1つの仮説をもってゐる。
九州説が圧倒的に優勢といはれた時代は、文化人の反中央集権的な心情が裏にあったといへなくもない。一方、畿内有力説の拡散は、冷戦終結後の新自由主義イデオロギーの反映ではないかといふものである。東京都の人口増は頭打ちの傾向があったのだが、新自由主義の時代に増加に転じた。地球温暖化説も、異論が多く、新自由主義イデオロギーの虚構だったことになるかもしれず、そんな世の中の反映ではないかと思ふ。

最近は、畿内出身であるが九州説をとる森浩一氏の本、『倭人伝を読み直す』(ちくま新書 2010) を読んだ。

中綴印刷の覚書


これまで何度も作ってはゐるのだが、追加増刷もすぐできるように、統一的な作り方を決めて置くことにした。

準備


プリンタは、Canon MF4100。A4で両面印刷ができるレーザープリンタ。
文書ファイルは、ワープロの一太郎Lite2。pdf作成ソフト。

ワープロ文書は、用紙サイズ A4の設定で作る。
以前は仕上がりのA5で作り、ワープロの印刷設定でA4に拡大出力し、プリンタソフトの「製本印刷」で縮小する方式だった。しかし連続して複数冊を印刷するとき、毎回の印刷設定での拡大出力を忘れて失敗することがよくあったので、最初からA4で作る。

A4では文字を大きく作る。縮小後のA5で10.5ポイントとするには、A4文書では文字サイズ 15ポイントとなる。
ワープロ編集画面では縮小表示(75%表示)での編集とする。一太郎の左ツールバーに「75%表示」ボタンを作っておく。

中綴ぢ冊子のページ数は、4ページ単位となる。
32ページで作成のつもりでも、33ページ目に改行1つがあるだけで36ページとして処理され印刷失敗となるので注意。
ページ数に間違ひがなければ、印刷設定での「印刷終了ページ」の指定は不要である。あるいは本文29ページで最後の3ページが白紙といふのも変なので、途中で改ページなどしてレイアウトを整へると良い。

プリンタの設定
プリンタの「プロパティ」から、「中綴ぢ」の設定。
MF4100では、設定項目のうち、「仕上げ」項目から、「製本印刷」と「右開き(縦書き)」などを設定する。その設定を「中綴印刷」という名前で保存しておく。
ワープロの印刷メニューから、プリンタを選択するとき、プリンタ一覧はアルファベット順で最後尾優先となってゐる。登録数が多いとCannon は先頭なので一覧を上にスクロールさせねば選択できない。不要なプリンタドライバを削除してスクロールを不要にする。プリンタドライバの削除は、[スタートメニュー]〜[設定(S)]〜[プリンタ(P)]から。

以上で準備完了。

実際の印刷手順


本文の印刷は、ワープロのメニューから「印刷」を選択。
次に、プリンタのプロパティで、Mf4100を選択または確認し、「中綴印刷」を選択または確認。
あとは「OK」をクリックして印刷実行。

32ページなら8枚の紙が印刷されてプリンタから出てくる。8枚をまとめて半分に折れば、中綴ぢ冊子になるはずだ。
ワープロを終了させない限り、プリンタ選択の再設定は不要である。1冊の印刷終了後に、つづけて「OK」をクリックするだけで2冊めの印刷が始まる。印刷したい冊数だけ「OK」をクリックすることになる。

表紙の印刷。
表紙を本文とは別の厚めの紙にするときは、本文とは別の文書ファイルとして作り、本文とは別に印刷する。

PDFの作成と印刷


このワープロからは、複数冊を連続印刷することは、うまくいかないようである。
pdfを作成しておけば、pdfソフト(Adobe Acrobat Reader 等)から、部数を指定して、あとは1クリックで連続して何冊分でも印刷できる。

PDFを作るには、ワープロの印刷設定からPDFドライバを"プリンタ"に指定して"印刷"を実行すると、PDFファイルができる。無料のpdf作成ソフトは、ほとんど海外製品なので、日本語の縦書き文書への対応が不十分である(カッコや中黒点などがずれる)。ジャストシステム製品なら間違ひないので、JUST PDF 3 を使用。

印刷は、PDFソフトから実行し、そのとき、プリンタや中綴印刷を選択する。

製本


印刷が完了し、プリンタに排出された紙を、まとめて半分に軽く折ってみる。同じように軽く折っておいた表紙を重ね、横向きホチキス(商品名「たてよこホチキス」等)で、上からと下からの2か所を留める。
そして、紙が斜めにずれないように、一冊全体にしっかりと折り癖をつける。
小口を裁断機で切り揃へてもよい。100枚程度の紙をまとめて切れる裁断機が必要。

『日本お伽集』などの挿絵

2017.04.19 Wednesday ◇ 神々Edit
平凡社 東洋文庫の『日本お伽集』は、大正9〜10年に刊行された『日本神話』『日本伝説』『日本童話』を収録したもので、執筆は、森鴎外(林太郎)、鈴木三重吉などである。

挿絵も多数掲載され、画家は、久米修二、木村晴三、浜田如洗、南枝知一の四人だが、どの絵がどの画家のものか、想像してみた。

上に載せたのは、日本神話の冒頭の絵であるが、浜田如洗の絵と思はれる。右下に「如?」と署名が見える。この画家のものは、最近の歴史雑誌などに再掲載されたものを見たことがあるような気がする。

久米修二の絵は、「修二」と署名されてゐる絵があるので、それだらう。込み入った線の筆使いの絵である。

木村晴三の絵は、○に「キ」などと署名された絵がある。絵柄は日本画風で風景描写が良い絵であるが、この本の「日本神話」の部分には、この画家の絵はなかったかもしれない。

南枝知一(なんしともかず)は、その他の署名のない絵ということになる。美少年や美少女の絵が印象的な、現代風の絵柄。次の海彦山彦の部分の絵は、南枝知一と想像。


さて次に
菊池寛『日本建国童話集』は昭和2年、文藝春秋社刊で、古事記全三巻の話をまとめたもの。扉絵の画家はは野田九浦。
挿絵には伊藤孝をはじめ6人の名があるが、巻頭の伊邪那伎・伊邪那美の絵(下の画像右)は、伊藤孝ではないかと想像する。絵の隅に「たか」と読める署名がある。雑誌『コドモノクニ』などでは子供向けの絵が多数ある人で、伊藤孝之とも書く。


日本児童文庫『日本歴史物語(上)』は昭和3年。神話時代の文量は少ない。
挿絵は日本画家の小村雪岱だが、簡略な絵であり、絵の点数も少ない。

洪水伝説

2017.02.21 Tuesday ◇ 神々Edit
『失われた文明』(ゴルボフスキー著、講談社現代新書1972) によると、
世界各地の神話物語に共通して見られるのは、鳥=太陽、蛇=闇と洪水、という対立の図式であるという。そして、
「日本の神話のなかでは、へびをくわえている神聖な鳥・ベング(おおとり?)という形で表現されている。」(71p)
と書かれるのだが、「おおとり?」は訳者の注釈かもしれないが、ベングが何のことかよくわからない。また、
「仏教の伝説によれば、インド、日本、中国でもまた大水すなわち洪水のシンボルであるへびのナーガもまた湖に住み、人々が聖木に近づくのを防いでいる。」(100p)
古い日本語に蛇を意味するナギという言葉があるらしいが、ナーガはよくわからない。ここでいう「聖木」とは、「シンボルとしての智恵の木」のことで「日本でこの役割を演じているのはみかんの木、中国においてがカシヤ(肉桂)の木、……である。」(98p)
みかんは橘のことかもしれないが、橘は生命の木、桜は智恵の木ともいうようだが、これは外来思想だろう。
・・・というわけで、この本についての評価は難しい。

ここからが本文である。
世界中の神話伝説に見られる洪水伝説が、日本にないのは不思議だとは、他の人の本でも読んだことがあるが、古事記にはないこともない。

1つは、海を知らす須佐之男命、須佐之男命の犯した天津罪のいくつかは、洪水被害のようにも解釈できる。畦を破壊し、用水の溝を埋め、水を引く樋を破壊し、田の標の串を流した。須佐之男命は、洪水のシンボルのようにも見える。この海の神は、それ以前には、泣いてばかりいた。涙と海水の関係を示唆しているのかもしれない。

2つめは、山彦の海神宮訪問。海神宮を訪れた山彦は、しばらく海中で暮らした後、潮満珠と潮干珠を海神から授かった。そして潮満珠で洪水をおこし、海彦を溺れさせて従わせた。
あるいは、山彦はその名の通り山であるなら、移動せずとも、海面が上がったために海中生活をした時期があったとの解釈もできなくはない。

2つとも、小規模な洪水であり、洪水を起こす神は、一神教のような絶対神ではない。一神教のような破滅的な大洪水ではないだけの話である。

本の持ち方

2016.10.12 Wednesday ◇ 雑記Edit
書店に並んでゐる雑誌の表紙を見ると、表紙の中央よりやや小口寄りに、爪跡のようなものがあり、裏表紙も同様の状態のときがある。立ち読みした者がつけたのだらう。
どうも、本の持ち方が間違ってゐるのではないかと思った。

そこでネットの画像検索で「読書 イラスト」を検索してみると、本を立て、本の両端を掴んでゐる子供の絵が実に多い。

立ち読みの者は、そのような持ち方(掴み方)で、大判の雑誌を開いて左右を掴み、親指は押さへたまま、四本指を中に寄せて中ほどまでを閉ぢ、片手の親指をゆるめて1枚だけ離し、反対の親指でその1枚を掴み、両手を左右に広げて新しいページを読む、というやりかたをしてゐるようだ。(文章の説明だけではわかりにくいだろうが)
ページめくりのとき、本の左右を掴んだまま中に寄せるのだが、そのとき紙は直角に近い状態に曲る。脇で見てゐると、それらの一連の動作を高速に行なって飛ばし読みをしてゐる乱暴な者もある。そのために本を傷めるのだらう。
単行本では、カバーを上にずらしたまま棚に戻してあるのがあるが、本を立てて掴み持ちしてゐるので中身が下がるからだらう。
女性の場合は、そんな乱暴なことはせず、扱ひも丁寧な人が多い。

では、正しい本の持ち方、本の持ち方の手本とは、どのようなものであるべきか。じつは恰好の手本がある。

誰でも知ってゐる二宮金次郎の像である。手本は二宮金次郎 といふわけだ。

二宮金次郎の像は、背中に薪を背負ひ、左手の手のひらを胸の下で上に向けて水平にし、その高さで、手のひらの上に開いた本を載せてゐる。本は、やや手前が低くなるが、ほぼ水平である。和本は軽いので、片手に載せるだけでじゅうぶんである。
ページをめくるときは右手の親指で、左ページの下から右へめくる。
小さい本などで、すぐに閉ぢてしまいやすい場合は、左手の親指の先で、本の表側から軽く押さへる。

最近の本は、紙が硬く、製本も接着剤で固めるだけなので、ページを開きにくいといふ問題もあるのだらう。
欧米人では、小型の本や手帳を持つときは、片手で、手のひらを顔に向けて胸の高さに立て、本の下から、親指と小指を本の表に出し、残りの指は裏側で本の背のあたりを支へるといふ人が多いようだ。この場合は、軽く挟むだけなので、本は立てたほうが安定する。

蔵書の処分

2016.09.29 Thursday ◇ 書斎と事務Edit
骨董品を鑑定するテレビ番組などで、定年後に退職金などを元にコレクションを始めた人などは、集めたコレクションの数は全く把握してゐないと言ふ。年齢によるものと思はれる。

音楽家の大瀧詠一は、還暦を2〜3年過ぎたころ、これまでのレコードコレクション数万点を処分したとある年の正月のラジオ番組で語ってゐた。数万といふ数を管理するのは年齢的に無理になったからではないかと思ふ。若いころからのコレクションなら、記憶を頼りに以後の執筆活動などには大きな影響はない。(その後逝去されたが)
作家の井上ひさしが故郷の山形県の川西町に蔵書13万冊を寄付した話を聞いたことがあるので、そのときの年齢を調べてみた。1987年(昭和62年)といふから、63歳である。大瀧氏とほぼ同じだ、井上氏はその後20年以上活躍した。

62〜63歳。
以前は、どの本がどこに置いてあるかは、かなりきっちり把握してゐた。今はそれができない。
そこで処分をしようと思った。
今後の研究のことを思ふと、全て処分するほどの自信はない。

念入りに選別するほどの時間もないので、とりあへず、蔵書部屋のものは全て「仮処分」したものとみなし、そこから必要なものを近くに運んで区別することにした。運ぶ前にその本の付近を見て、正式処分に値するものは、処分箱へ移動。といったことを考へた。
もっと簡単で良い方法があればよいが。

「古代」と「渡来人」

2016.09.19 Monday ◇ 歴史Edit
井上章一といふ人が、ドイツの大学教授を奈良の法隆寺に案内したとき、「7世紀の古代建築です」と説明すると、教授は不審な顔をして「7世紀は中世のはずだ」と答へたといふ。それがきっかけにもなり『日本に古代はあったのか』 (角川選書、井上章一著)といふ本を書いたそうだ。
ヨーロッパ史では、ローマ帝国が崩壊してゲルマン民族の移動が始まった4世紀から中世が始まるとされる。ゲルマン民族の子孫がドイツ人なので、ドイツ史は中世史から始まる。
日本史で「古代」と言ってゐるのは、単に「古い時代」のことで、何かの定義付けがあるわけではない。わが国は古くから続いてゐるのだといふ気持ちないし願望の反映でしかないような話。
古代の定義について、難しい話は省くが、井上氏は世界帝国(ローマ帝国)の時代のようなイメージであるように読んだ。そのようなことなら、確かに日本が統一されたのは律令制のころかもしれず、「古代律令制」といふ言葉を使ふ人もあり、律令制度が崩壊して中世の武家政権が始まるといふのが教科書にも書いてあったような気がする。

しかし律令制の時代が世界的には中世だったとしたら、中国の中世の律令制を日本の古代が取り入れたといふ奇妙なことになる。
気になったので、中国史の時代区分について、Wikipediaを見た。諸説があり論争もあるとか。だがそこに列挙された参考文献などを見て驚いたのは、全部が日本人学者だったことだ。中国史の時代区分を論争してゐるのは日本人だけ。中国では古代とか中世とかの区分法は取り入れてゐない。

6世紀中ごろまで朝鮮半島南部に、加羅ないし任那といふ国が存在した。そこには任那日本府と呼ばれるものもあり、前方後円墳もあり、任那の一部には倭人も住んでゐたとのことである。半島では百済と新羅の対立が激しくなり、任那は6世紀に新羅に併合された。これらの詳細については諸説があって踏み込むのは大変だ。

思ふに、戦乱を逃れて半島から大和へ渡ってきた倭人である任那人も多かったことだらう。新羅に併合された後はその倭人は新羅人となって大和へ移住する。親大和だった百済へ逃れた倭人も多かったかもしれないが、7世紀に百済が滅びたときはその倭人は百済人として大和に渡来してきたことだらう。百済が新羅に併合された後では、新羅からの渡来になる。・・・このように理解すれば、この時代だけに半島からの渡来人が多かったことは納得できる。

最初にふれた本では、「世界帝国」のようなものが「古代」の条件の一つにも解釈できるのだが、専門的なことはわからないが、世界帝国とは、異民族の共存がなければ成立しない。「共存」の中身には、上下の支配も含まれるかもしれないが、排除ではない。
この古代的な共存が崩れ、民族の自治へ向ふのが「中世」だと見てはどうだらうか。とすれば、極東では朝鮮半島の統一(民族の自立)のころは中世なのではなからうか。


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