平凡社 東洋文庫の『日本お伽集』は、大正9〜10年に滑降された『日本神話』『日本伝説』『日本童話』を収録したもので、
執筆は、森鴎外(林太郎)、鈴木三重吉などである。
挿絵も多数掲載され、画家は、久米修二、木村晴三、浜田如洗、南枝知一。

上に載せたのは、日本神話の冒頭の絵であるが、浜田如洗の絵と思はれる。右下に「如?」と署名が見える。雑誌歴史読本の神話記事に再掲載されたものなどを見たことがある。
久米修二の絵は、「修二」と署名されてゐる絵があり、込み入った線の筆使いの絵である。
木村晴三の絵は、○に「キ」などと書かれた絵があり、日本画風で風景描写が良い絵であるが、日本神話以外でしかないかもしれない。。
南枝知一(なんしともかず)は、署名のない絵ということになるが、美少年や美少女の絵が印象的で、現代風。次の海彦山彦の部分の絵は、南枝知一と想像。


菊池寛『日本建国童話集』は昭和2年、文藝春秋社刊で、古事記全三巻の話をまとめたもの。扉絵の画家はは野田九浦。
挿絵には伊藤孝をはじめ6人の名があるが、巻頭の伊邪那伎・伊邪那美の絵は、伊藤孝ではないかと想像する。絵の隅に「たか」と読める署名がある。雑誌『コドモノクニ』などでは子供向けの絵が多数ある人で、伊藤孝之とも書く。


日本児童文庫『日本歴史物語(上)』は昭和3年。神話時代の文量は少ない。
挿絵は日本画家の小村雪岱だが、簡略な絵で数も少ない。

『失われた文明』(ゴルボフスキー著、講談社現代新書1972) によると、
世界各地の神話物語に共通して見られるのは、鳥=太陽、蛇=闇と洪水、という対立の図式であるという。そして、
「日本の神話のなかでは、へびをくわえている神聖な鳥・ベング(おおとり?)という形で表現されている。」(71p)
と書かれるのだが、「おおとり?」は訳者の注釈かもしれないが、ベングが何のことかよくわからない。また、
「仏教の伝説によれば、インド、日本、中国でもまた大水すなわち洪水のシンボルであるへびのナーガもまた湖に住み、人々が聖木に近づくのを防いでいる。」(100p)
古い日本語に蛇を意味するナギという言葉があるらしいが、ナーガはよくわからない。ここでいう「聖木」とは、「シンボルとしての智恵の木」のことで「日本でこの役割を演じているのはみかんの木、中国においてがカシヤ(肉桂)の木、……である。」(98p)
みかんは橘のことかもしれないが、橘は生命の木、桜は智恵の木ともいうようだが、これは外来思想だろう。
・・・というわけで、この本についての評価は難しい。

ここからが本文である。
世界中の神話伝説に見られる洪水伝説が、日本にないのは不思議だとは、他の人の本でも読んだことがあるが、古事記にはないこともない。

1つは、海を知らす須佐之男命、須佐之男命の犯した天津罪のいくつかは、洪水被害のようにも解釈できる。畦を破壊し、用水の溝を埋め、水を引く樋を破壊し、田の標の串を流した。須佐之男命は、洪水のシンボルのようにも見える。この海の神は、それ以前には、泣いてばかりいた。涙と海水の関係を示唆しているのかもしれない。

2つめは、山彦の海神宮訪問。海神宮を訪れた山彦は、しばらく海中で暮らした後、潮満珠と潮干珠を海神から授かった。そして潮満珠で洪水をおこし、海彦を溺れさせて従わせた。
あるいは、山彦はその名の通り山であるなら、移動せずとも、海面が上がったために海中生活をした時期があったとの解釈もできなくはない。

2つとも、小規模な洪水であり、洪水を起こす神は、一神教のような絶対神ではない。一神教のような破滅的な大洪水ではないだけの話である。

書店に並んでゐる雑誌の表紙を見ると、表紙の中央よりやや小口寄りに、爪跡のようなものがあり、裏表紙も同様の状態のときがある。立ち読みした者がつけたのだらう。
どうも、本の持ち方が間違ってゐるのではないかと思った。

そこでネットの画像検索で「読書 イラスト」を検索してみると、本を立て、本の両端を掴んでゐる子供の絵が実に多い。

立ち読みの者は、そのような持ち方(掴み方)で、大判の雑誌を開いて左右を掴み、親指は押さへたまま、四本指を中に寄せて中ほどまでを閉ぢ、片手の親指をゆるめて1枚だけ離し、反対の親指でその1枚を掴み、両手を左右に広げて新しいページを読む、というやりかたをしてゐるようだ。(文章の説明だけではわかりにくいだろうが)
ページめくりのとき、本の左右を掴んだまま中に寄せるのだが、そのとき紙は直角に近い状態に曲る。脇で見てゐると、それらの一連の動作を高速に行なって飛ばし読みをしてゐる乱暴な者もある。そのために本を傷めるのだらう。
単行本では、カバーを上にずらしたまま棚に戻してあるのがあるが、本を立てて掴み持ちしてゐるので中身が下がるからだらう。
女性の場合は、そんな乱暴なことはせず、扱ひも丁寧な人が多い。

では、正しい本の持ち方、本の持ち方の手本とは、どのようなものであるべきか。じつは恰好の手本がある。

誰でも知ってゐる二宮金次郎の像である。手本は二宮金次郎 といふわけだ。

二宮金次郎の像は、背中に薪を背負ひ、左手の手のひらを胸の下で上に向けて水平にし、その高さで、手のひらの上に開いた本を載せてゐる。本は、やや手前が低くなるが、ほぼ水平である。和本は軽いので、片手に載せるだけでじゅうぶんである。
ページをめくるときは右手の親指で、左ページの下から右へめくる。
小さい本などで、すぐに閉ぢてしまいやすい場合は、左手の親指の先で、本の表側から軽く押さへる。

最近の本は、紙が硬く、製本も接着剤で固めるだけなので、ページを開きにくいといふ問題もあるのだらう。
欧米人では、小型の本や手帳を持つときは、片手で、手のひらを顔に向けて胸の高さに立て、本の下から、親指と小指を本の表に出し、残りの指は裏側で本の背のあたりを支へるといふ人が多いようだ。この場合は、軽く挟むだけなので、本は立てたほうが安定する。

骨董品を鑑定するテレビ番組などで、定年後に退職金などを元にコレクションを始めた人などは、集めたコレクションの数は全く把握してゐないと言ふ。年齢によるものと思はれる。

音楽家の大瀧詠一は、還暦を2〜3年過ぎたころ、これまでのレコードコレクション数万点を処分したとある年の正月のラジオ番組で語ってゐた。数万といふ数を管理するのは年齢的に無理になったからではないかと思ふ。若いころからのコレクションなら、記憶を頼りに以後の執筆活動などには大きな影響はない。(その後逝去されたが)
作家の井上ひさしが故郷の山形県の川西町に蔵書13万冊を寄付した話を聞いたことがあるので、そのときの年齢を調べてみた。1987年(昭和62年)といふから、63歳である。大瀧氏とほぼ同じだ、井上氏はその後20年以上活躍した。

62〜63歳。
以前は、どの本がどこに置いてあるかは、かなりきっちり把握してゐた。今はそれができない。
そこで処分をしようと思った。
今後の研究のことを思ふと、全て処分するほどの自信はない。

念入りに選別するほどの時間もないので、とりあへず、蔵書部屋のものは全て「仮処分」したものとみなし、そこから必要なものを近くに運んで区別することにした。運ぶ前にその本の付近を見て、正式処分に値するものは、処分箱へ移動。といったことを考へた。
もっと簡単で良い方法があればよいが。

井上章一といふ人が、ドイツの大学教授を奈良の法隆寺に案内したとき、「7世紀の古代建築です」と説明すると、教授は不審な顔をして「7世紀は中世のはずだ」と答へたといふ。それがきっかけにもなり『日本に古代はあったのか』 (角川選書、井上章一著)といふ本を書いたそうだ。
ヨーロッパ史では、ローマ帝国が崩壊してゲルマン民族の移動が始まった4世紀から中世が始まるとされる。ゲルマン民族の子孫がドイツ人なので、ドイツ史は中世史から始まる。
日本史で「古代」と言ってゐるのは、単に「古い時代」のことで、何かの定義付けがあるわけではない。古くから続いてゐるのだといふ気持ちないし願望の反映でしかないような話だった。
古代の定義について、難しい話は省くが、井上氏は世界帝国(ローマ帝国)の時代のようなイメージであるように読んだ。そのようなことなら、確かに日本が統一されたのは律令制のころかもしれず、「古代律令制」といふ言葉を使ふ人もあり、律令制度が崩壊して中世の武家政権が始まるといふのが教科書にも書いてあったような気がする。

しかし律令制の時代が世界的には中世だったとしたら、中国の中世の律令制を日本の古代が取り入れたといふ奇妙なことになる。
気になったので、中国史の時代区分について、Wikipediaを見た。諸説があり論争もあるとか。だがそこに列挙された参考文献などを見て驚いたのは、全部が日本人学者だったことだ。中国史の時代区分を論争してゐるのは日本人だけ。中国では古代とか中世とかの区分法は取り入れてゐない。

6世紀中ごろまで朝鮮半島南部に、加羅ないし任那といふ国が存在した。そこには任那日本府と呼ばれるものもあり、前方後円墳もあり、任那の一部には倭人も住んでゐたとのことである。半島では百済と新羅の対立が激しくなり、任那は6世紀に新羅に併合された。これらの詳細については諸説があって踏み込むのは大変だ。

思ふに、戦乱を逃れて半島から大和へ渡ってきた倭人である任那人も多かったことだらう。新羅に併合された後はその倭人は新羅人となって大和へ移住する。親大和だった百済へ逃れた倭人も多かったかもしれないが、7世紀に百済が滅びたときはその倭人は百済人として大和に渡来してきたことだらう。百済が新羅に併合された後では、新羅からの渡来になる。・・・このように理解すれば、この時代だけに半島からの渡来人が多かったことは納得できる。

最初にふれた本では、「世界帝国」のようなものが「古代」の条件の一つにも解釈できるのだが、専門的なことはわからないが、世界帝国とは、異民族の共存がなければ成立しない。「共存」の中身には、上下の支配も含まれるかもしれないが、排除ではない。
この古代的な共存が崩れ、民族の自治へ向ふのが「中世」だと見てはどうだらうか。とすれば、極東では朝鮮半島の統一のころは中世なのではなからうか。

東日本大震災から5年半。
また、同時に起きた東電福島原発の大事故は、戦後日本の最大の挫折といふべきなのだらう。

岩手県のどこだったか、海岸より少し高いところに明治時代の津波のときの石碑があり、この場所より低い所に家を建ててはいけないと文字が刻まれてあるらしい、といふことを最初に知ったのは、2003年ごろのNHKテレビ番組だった。文字は和歌の形式の文句であり、番組録画をしてし、自サイトの「歌語り風土記」に追加しようと思ったのだが、HDレコーダーは買ったばかりで操作を誤って消してしまった。

震災後まもなくのころ、漫画家の水木しげる氏が週刊誌でこの石碑のことにふれ、昔の人の言葉は貴いのだから守らなければいけないと語るのを読んだ。実際は明治の戒めは守られずに、津波の被害は繰り返されたのである。
そのころ、宮本常一の本で、昭和初期の東北の津波の記録を読むと、塩釜付近の海岸地域の略地図が掲載され、津波被害を受けた範囲が図示してあった。この地もその後に海に沿って集落ができた。
なかなか表現が難しいのだが、昔の漁師たちは海で死ねたら本望といふ気持ちがあったのかもしれない。現代人とは多少異なる死生観があったのだらう。死後の世界がより身近なところに存在したような、江戸時代の子返しなども、現代の価値観で批判するのは問題がある。
石碑の戒めは、新時代のインテリによるヒューマニズムなのだと理解できる。

8月8日の天皇陛下のお言葉から1か月になる。
国民の反応は、非常に多くの人々が、天皇陛下にはこれまでじゅうぶんお世話になってきたので、今後は御公務の御負担を減らして差上げたい、皇太子殿下もじゅうぶん立派な後継者でいらっしゃるではないか、国民から陛下に感謝の気持ちをお伝へする方法はないものか、などなど、陛下への親しみと敬意に満ちたものであったことは、喜ばしいことだった。

 

陛下は、天皇としての実に多くの御仕事をされてきた。たとへば

 

御田植。御自身で田に入り、御田植をする行事である。国民にとって、農業や米の大切さを諭されていらっしゃるように見える。これらは豊作を祝ふ秋の新嘗祭など一連の神事と一つながりのもの。

 

沖縄や南方諸島を訪問され、戦没者の慰霊、そして平和の大切さ。

 

全国植樹祭では、両陛下による「お手植え・お手まき」行事があり、国民は緑の大切さをあらためて実感する。

 

被災地を御訪問され、不幸な境遇の人々には全国民が手を差し延べなければならないと国民は思ふ。

 

福祉施設への御訪問、そのほか・・・・。

 

今年の全国植樹祭では、長野市での中央式典のあと、C.W.ニコルさんの「アファンの森」を訪問された。これまで世間からはやや変人扱ひされてゐたニコルさんにも、陛下は理解を示された。そのむかしの昭和天皇と南方熊楠のことを思ひ起こした人も多からう。
昭和四年の天皇行幸のときに御言葉を賜ったときの歌。

  一枝も心して吹け、沖つ風。天皇(すめらみこと)のめでまし森ぞ 南方熊楠

昭和三十七年、再び南紀を行幸された昭和天皇の御製。
  雨にけぶる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ

 

キリスト教や仏教には、キリストや釈迦の時代に成立した古い時代の「教典」といったものがあるそうだが、日本の神道には、同類のものはないといふ。しかし国民それぞれの時代に、天皇陛下や皇族のお姿のことを、国民が思ふとき、教典に比すべきものは発生してゐるのである。ちょうど伊勢の神宮の建物が、どの時代でも瑞々しい存在であり続けるように。

 

また、陛下のお言葉の端々には、特別な暖かみのある、まさに天皇としてのお言葉使ひといふものがあるよう思ふ。古典語の世界では天皇だけに係る特別な敬語法などが研究されてきたと思ふが、現代語ではどうだったらうか。それは昭和天皇時代から今の陛下へと作り上げてこられたものとは思ふのだが。

 

(古典文法の世界では「自尊敬語」などと名付けられたものなどがあるようだが、自尊敬語といふ名付けのしかたは何とかならないものか)

 

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「元首」といふ言葉があるようだが、ラテン語の語源を調べて見ても、もとは軍事指揮官の意味である。ヨーロッパの王室は、日本で言へば、源氏や平氏、足利や徳川、すなはち征夷大将軍と比較されるべき時代背景のあるものともいへ、20世紀以後は、軍事や政治権力から遠ざかり、日本の皇室へ引き寄せられてゐるかのようにも見えるわけである。


9月の6日、7日は、

 外江戸古文書会 を更新。

 

古文書のまとめは、数年前から取り組むつもりだったが、たいへん長く停滞してゐた。

これまで書き散らした原稿は、それなりに溜まってゐる。

それらに手を加へてブログ記事としてまとめる、そのようなことが日常的な慣習となって行けば、

あとはその流れに、慣性的に身をゆだねるだけで良いのかもしれない。

そうなるかどうか。


高校時代(1971)の夏、父の書棚にあった 大野晋『日本語の起源』(岩波新書)
を手に取って読み始めてみたら、そのまま一気に読み終へてしまった。
一般向けの「大人の本」を数時間で読了したのは初体験だったので、すがすがしい読後感が残ることになった。本は1957年発行の旧版。

 

本の内容は、言葉(単語)の語形や発音が、時代によって変化してゆくこと、地方には方言といふ形で変化した語形があること、それらの変化には法則性があること、などが書かれてゐた。
大野氏の本を次に読むのは1974年の『日本語をさかのぼる』であり、高校から大学にかけてのこの3年間は、長く感じられた時代だった。

 

「その人が青年期に負った心の傷、あるいは青年期に自分自身に課した課題というものがある。その傷を癒し、その課題を解く、その仕事を一生かかっていろんな形で具体化しようとする。そこに学問が形をなしてくる。」(大野晋)

 

これは『語学と文学の間 』(岩波現代文庫 2006)の中の一節だと思ふ。氏は少年時代に万葉集と出会ひ、万葉の古い言葉を理解するために、国語学の道へ進んだとのことである。青年期の「心の傷」とはどんなものだったか。大野氏には、国語学者としては異例(?)にも見えるいくつかの発言などがあり、そのへんに鍵があるような気がする。どんなものかといふと、

 

1、狭山事件における脅迫状の文章鑑定。高学歴の者の作文であることを論証した。

 

2、埼玉県稲荷山古墳から出土の鉄剣の文字の解釈。ワカタケル大王は雄略帝ではなく欽明帝だといふ。これについては埼玉県史通史編では雄略帝としながらもその根拠の薄弱であることが見てとれる。

 

3、本居宣長の再婚をめぐるいきさつについての説。丸谷才一が『恋と女の日本文学』でも紹介した。日本文学についての深い理解がなければとうてい見抜けないものだろう。

 

4、タミル語をめぐる古代文化研究

 

ところで、大野氏の日本語タミル語起源説について、当時(1981-81)の批判側の雑誌2冊(季刊邪馬台国10号11号)を読んでみた。あまりレベルが高そうな雑誌ではなかったが、読んだ印象としては、西洋の比較言語学とは、19世紀自然主義の流れの中で成立したものなのだらうといふことだった。

この同じ流れの中には、まづ、生物学のダーウィニズムがある。日本文学では、あの私小説的世界(丸谷才一が嫌ふあれである)。最近気づいたのは、日本の歴史のいはゆる江戸時代暗黒時代説も、これらと同時代的な価値観によるものだらう。
……と書いただけでは説明不十分なのだが、続きは、後日、書いてみよう。他にも説明を簡略しすぎた部分がある。

 

(補足)丸谷才一の名前が2度出たが、氏のものを最初に読んだのは、大野氏と共著の『日本語相談』(1989)だった。


歴史的仮名遣ひは。少しのルールをおぼえるだけで、それほど難しいものではない。

 

歴史的仮名遣ひがどんなものかについては、Wikipediaの記述がわかりやすい内容になってゐる。
歴史的仮名遣ひは、平安時代の古今集から源氏物語・枕草子などの女流文学全盛時代の仮名遣ひを手本に、江戸時代に本居宣長が集大成したものであるが、字音仮名遣(祈願をキグワンと表記)は歴史的仮名遣ひとは別のものとする考へが広く存在し、時枝誠記・福田恒存・丸谷才一らの名がWikipediaであげられてゐる。この三人は昭和時代以後に活躍した人だが、明治時代からこうした考へはあった。それで良いと思ふ。

 

字音仮名遣ひについては、要するに、漢語である「祈願」にキグワンなどとふりがなを付けるときに意識されることもあるが、普通はいちいち仮名はふらないので、さほど問題にはならない。
例外的に、仮名表記が普通のものがいくつかある。
 〜の様な 〜の様に
これらも、「〜のような、〜のように」で良いと思ふ。(丸谷氏は、例外的に「やう」)
 「〜の所為で」は、当て字なのだが、「為」の字にとらはれて「〜のせゐ」と書く人もいるが、「せい」が正しいようである。

 

そのほかでは、語源説の問題かもしれないが、指示代名詞ないし接続詞の類の
「かうして、さうして、だうして」も、
「こうして、そうして、どうして」と表記した昔の人の例がある。
「かうして」は「かくして」の音便形かもしれないが、「さうして」は、単に「さ」を伸ばしただけなのかよくわからないし、「そして」といふ短縮形との関係はどうなのか。
わが先祖の例もあるので、「こうして、そうして、どうして」と表記することにした。

 

仮名遣ひではなく、漢字表記の問題については、
丸谷氏は、「文芸」ではなく「文藝」、「証明」ではなく「證明」など、いくつかのこだはりがあるようだ。たしかに江戸時代の「證文」などは、「証文」と書いては、個人の文書ではなくお役所の文書みたいででぴったりこない。こういふのは個人のこだはりで良いと思ふ。
また、戦後の代用漢字のようなもの…… 例へば「障碍」を「障害」と書く例では、おそらく公文書で「障害」の表記が徹底されてゐると思ふので、現行に従ふのもやむをえないかもしれない。「障碍」といふ表記はほとんど見かけない。
「麻薬」を正しく「痲薬」と書く人も、今は少ないかもしれないが、「痲痺」は見かける。「麻薬」は法律家の表記で、「痲痺」は医者の表記であることがその理由かもしれない。「痲痺」は2文字とも「病だれ」であるのに、1字だけ勝手に変へるのもをかしい。

大麻といふ植物から作られる痲薬の一種であるタイマは、大痲でなく大麻と表記されるようになったが、その経緯は不明である。



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