邪馬台国

2017.07.30 Sunday ◇ 歴史Edit
今日の邪馬台国のブームのきっかけとなったのは、長崎県島原市の盲目の作家・宮崎康平の著作『まぼろしの邪馬台国』(講談社 1967年1月)であるといふ。
筆者は、学習研究社の雑誌『中学一年コース』か『二年コース』で、同書の紹介記事を読んだ記憶があるので、1967年の早い時期といふことになる。
1967年は、手塚治虫の「火の鳥・黎明編」が雑誌『COM』に連載された年であり、「火の鳥」には邪馬台国や卑弥呼が登場する。最初に読んだのは6月号だった。作品に登場する騎馬姿の征服者は、無気味で奇妙に思えた。
『まぼろしの邪馬台国』は1965年から雑誌に連載されたものを単行本化したとのこと。「火の鳥・黎明編」の最初の単行本は1968年。

こうしてみると、邪馬台国ブームの初期のころから、関心をもってゐたことになる。

ブームを作ったもう1冊は、井上光貞『日本の歴史 第1巻 神話から歴史へ』 中央公論社 1964年初版だそうで、これを読んだのは、数年後、1969年ごろだった。
そのほか、松本清張の『古代史疑』(1968)なども有名だったらしい。『清張通史』は東京新聞連載時に読んだ記憶があるが、1976年。有明海が博多湾までつながってゐたような想定があったような気がする。

井上、宮崎、手塚、松本、4人とも邪馬台国九州説である。
邪馬台国畿内説には、ベストセラーといふものがあったかどうか記憶にないが、横綱が東西に2人あるような配置が日本人に好まれるためだらうか。

このごろは、論証もなく「近年は畿内説が有力云々」と書き始める人が目立つが、いつからそんなふうになったのだらうか。それについては1つの仮説をもってゐる。
九州説が圧倒的に優勢といはれた時代は、文化人の反中央集権的な心情が裏にあったといへなくもない。一方、畿内有力説の拡散は、冷戦終結後の新自由主義イデオロギーの反映ではないかといふものである。東京都の人口増は頭打ちの傾向があったのだが、新自由主義の時代に増加に転じた。地球温暖化説も、異論が多く、新自由主義イデオロギーの虚構だったことになるかもしれず、そんな世の中の反映ではないかと思ふ。

最近は、畿内出身であるが九州説をとる森浩一氏の本、『倭人伝を読み直す』(ちくま新書 2010) を読んだ。

「古代」と「渡来人」

2016.09.19 Monday ◇ 歴史Edit
井上章一といふ人が、ドイツの大学教授を奈良の法隆寺に案内したとき、「7世紀の古代建築です」と説明すると、教授は不審な顔をして「7世紀は中世のはずだ」と答へたといふ。それがきっかけにもなり『日本に古代はあったのか』 (角川選書、井上章一著)といふ本を書いたそうだ。
ヨーロッパ史では、ローマ帝国が崩壊してゲルマン民族の移動が始まった4世紀から中世が始まるとされる。ゲルマン民族の子孫がドイツ人なので、ドイツ史は中世史から始まる。
日本史で「古代」と言ってゐるのは、単に「古い時代」のことで、何かの定義付けがあるわけではない。わが国は古くから続いてゐるのだといふ気持ちないし願望の反映でしかないような話。
古代の定義について、難しい話は省くが、井上氏は世界帝国(ローマ帝国)の時代のようなイメージであるように読んだ。そのようなことなら、確かに日本が統一されたのは律令制のころかもしれず、「古代律令制」といふ言葉を使ふ人もあり、律令制度が崩壊して中世の武家政権が始まるといふのが教科書にも書いてあったような気がする。

しかし律令制の時代が世界的には中世だったとしたら、中国の中世の律令制を日本の古代が取り入れたといふ奇妙なことになる。
気になったので、中国史の時代区分について、Wikipediaを見た。諸説があり論争もあるとか。だがそこに列挙された参考文献などを見て驚いたのは、全部が日本人学者だったことだ。中国史の時代区分を論争してゐるのは日本人だけ。中国では古代とか中世とかの区分法は取り入れてゐない。

6世紀中ごろまで朝鮮半島南部に、加羅ないし任那といふ国が存在した。そこには任那日本府と呼ばれるものもあり、前方後円墳もあり、任那の一部には倭人も住んでゐたとのことである。半島では百済と新羅の対立が激しくなり、任那は6世紀に新羅に併合された。これらの詳細については諸説があって踏み込むのは大変だ。

思ふに、戦乱を逃れて半島から大和へ渡ってきた倭人である任那人も多かったことだらう。新羅に併合された後はその倭人は新羅人となって大和へ移住する。親大和だった百済へ逃れた倭人も多かったかもしれないが、7世紀に百済が滅びたときはその倭人は百済人として大和に渡来してきたことだらう。百済が新羅に併合された後では、新羅からの渡来になる。・・・このように理解すれば、この時代だけに半島からの渡来人が多かったことは納得できる。

最初にふれた本では、「世界帝国」のようなものが「古代」の条件の一つにも解釈できるのだが、専門的なことはわからないが、世界帝国とは、異民族の共存がなければ成立しない。「共存」の中身には、上下の支配も含まれるかもしれないが、排除ではない。
この古代的な共存が崩れ、民族の自治へ向ふのが「中世」だと見てはどうだらうか。とすれば、極東では朝鮮半島の統一(民族の自立)のころは中世なのではなからうか。

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