井上章一といふ人が、ドイツの大学教授を奈良の法隆寺に案内したとき、「7世紀の古代建築です」と説明すると、教授は不審な顔をして「7世紀は中世のはずだ」と答へたといふ。それがきっかけにもなり『日本に古代はあったのか』 (角川選書、井上章一著)といふ本を書いたそうだ。
ヨーロッパ史では、ローマ帝国が崩壊してゲルマン民族の移動が始まった4世紀から中世が始まるとされる。ゲルマン民族の子孫がドイツ人なので、ドイツ史は中世史から始まる。
日本史で「古代」と言ってゐるのは、単に「古い時代」のことで、何かの定義付けがあるわけではない。古くから続いてゐるのだといふ気持ちないし願望の反映でしかないような話だった。
古代の定義について、難しい話は省くが、井上氏は世界帝国(ローマ帝国)の時代のようなイメージであるように読んだ。そのようなことなら、確かに日本が統一されたのは律令制のころかもしれず、「古代律令制」といふ言葉を使ふ人もあり、律令制度が崩壊して中世の武家政権が始まるといふのが教科書にも書いてあったような気がする。

しかし律令制の時代が世界的には中世だったとしたら、中国の中世の律令制を日本の古代が取り入れたといふ奇妙なことになる。
気になったので、中国史の時代区分について、Wikipediaを見た。諸説があり論争もあるとか。だがそこに列挙された参考文献などを見て驚いたのは、全部が日本人学者だったことだ。中国史の時代区分を論争してゐるのは日本人だけ。中国では古代とか中世とかの区分法は取り入れてゐない。

6世紀中ごろまで朝鮮半島南部に、加羅ないし任那といふ国が存在した。そこには任那日本府と呼ばれるものもあり、前方後円墳もあり、任那の一部には倭人も住んでゐたとのことである。半島では百済と新羅の対立が激しくなり、任那は6世紀に新羅に併合された。これらの詳細については諸説があって踏み込むのは大変だ。

思ふに、戦乱を逃れて半島から大和へ渡ってきた倭人である任那人も多かったことだらう。新羅に併合された後はその倭人は新羅人となって大和へ移住する。親大和だった百済へ逃れた倭人も多かったかもしれないが、7世紀に百済が滅びたときはその倭人は百済人として大和に渡来してきたことだらう。百済が新羅に併合された後では、新羅からの渡来になる。・・・このように理解すれば、この時代だけに半島からの渡来人が多かったことは納得できる。

最初にふれた本では、「世界帝国」のようなものが「古代」の条件の一つにも解釈できるのだが、専門的なことはわからないが、世界帝国とは、異民族の共存がなければ成立しない。「共存」の中身には、上下の支配も含まれるかもしれないが、排除ではない。
この古代的な共存が崩れ、民族の自治へ向ふのが「中世」だと見てはどうだらうか。とすれば、極東では朝鮮半島の統一のころは中世なのではなからうか。

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